旭化成陸上部の全日本実業団駅伝 第1回〜第20回大会    TBSより記事参照

第1回大会(1957年) 1位 八幡製鐵、2位 旭化成、3位 国鉄
☆全日本実業駅伝の輝かしい第一回大会が開催されたのは三重県伊勢市。伊勢市外宮前を午前11時にスタート。4区間83.5キロだった。
☆参加したのは14チーム。1区で先頭に立ったのはヘルシンキ五輪5000M代表の井上治。
当時の長距離界の第一人者だった。
☆初代チャンピオンに輝いたのは、ヘルシンキ五輪3000SC代表選手、高橋進を擁する八幡製鐵。高橋の担った2区を含め、5区間で区間賞を獲得した。八幡製鐵は、他チームを圧倒する強さだった。

第2回大会(1958年) 1位 リッカーミシン、2位 八幡製鐵、3位 全鐘紡
☆関東の雄リッカーミシンが、初代チャンピオンの八幡製鐵を相手に真っ向勝負を挑む。
☆リッカーミシンは1区で5位と出遅れた。が、2区で襷を受けた布上正之が驚異的な追い上げを見せて、八幡製鐵をかわし、3区の村田成男にリレー。その後も力走を続けたリッカーミシンは2位の八幡製鐵に4分余りの差をつけてゴールし、初優勝を飾る。

第3回大会(1959年) 1位 リッカーミシン(連覇)、2位 八幡製鐵、3位 東洋ベアリング
☆降雨により、泥まみれのコースで開催された第3回大会。前大会優勝のリッカーミシンと同2位の八幡製鐵がデットヒートを展開する。
☆1区で西村良三(リッカーミシン)が区間新、2区では山内二郎(八幡製鐵)が区間最高。
八幡製鐵は、3区でリッカーミシンを逆転。しかし、リッカーミシンも4区ですかさず逆転。
リッカーミシンは5〜7で区間最高を連ね大会新記録で連覇を果たす。
☆リッカーミシンは箱根駅伝で活躍した強豪を次々と加え、当時最強の陣容を誇っていた。

第4回大会(1960年) 1位 八幡製鐵、2位 東洋ベアリング、3位 明治製菓
☆10メートル前後の突風が吹き、強風注意報が発令される中での開催。
☆前年、連覇を果たしたリッカーミシンが不参加。
☆勝負を決めたのは、4区を走った八幡製鐵の新人・君原健二(8年後のメキシコ五輪・マラソン銀)だった。君原は、50メートル差の2位で襷を受けると、すぐさま東洋ベアリングを抜き去りトップに。ゴールでは200メートルの差を付けた。八幡製鐵は第1回大会以来2回目の優勝。

第5回大会(1960年) 1位 リッカーミシン、2位 東京急行、3位 倉敷レーヨン
☆駅伝の大会が3月に集中していたため、12月に移転。その結果1960年は、3月に第4回大会、12月に第5回大会が開催。
☆この大会から、地区推薦を行うようになり、各地で地区大会が行われる。
☆オープン参加で沖縄から全沖縄チームが参加(沖縄は1972年に米から返還)。
☆レースは、第4回大会を欠場したリッカーミシンの独壇場になった。リッカーミシンは3区で先頭に立つとそのまま2位に5分近い差を付け優勝。2位には、後にヱスビー黄金時代を築くことになる名将・中村清監督率いる初出場の東京急行(東急)。同じく初出場の小森印刷機械も前半トップに立つなど大健闘を見せ5位入賞。一方、前回優勝の八幡製鐵は6位、同2位の東洋ベアリングは7位だった。

第6回大会(1961年) 1位 東急、2位 リッカーミシン、3位 八幡製鐵
☆この大会より、地区連盟の割り当てが決まり、各地で予選が行われるようになった。(予選会を行うほどの参加チーム数が少ない一部地区では推薦制)地区連盟は右の通り。東日本・中部・関西・中国・西日本(後の九州連盟)
☆距離も100メートル延長。走行距離83.6キロとなった。 ☆レースは2区から雨が降り始め、標高45.4メートルの難所5区の五知峠は泥道と化した。
☆優勝したのは前回初出場2位の東急。1区で9位と出遅れたが、3〜5区で区間賞を連取し逆転。そのまま逃げ切った。前回覇者リッカーミシンは1区11位の出遅れが響き、2位。1秒差の3位に八幡製鐵が入った。
☆東急の5区を任された中尾隆行は当時、最強のマラソンランナーと称された。ただし、不思議と五輪とは縁がなかった。
☆15位日本レイヨンの4区を走ったのは、野口みずきのコーチ、藤田信之。(日本レイヨンは第4回大会にも出場。)
☆全鐘紡は第2回大会以来の出場。11位に終わった。また全沖縄は正式出場となった。
☆出場したこの大会の全てで優勝していたリッカーミシンは、初めての敗北。以後、優勝から見放されることとなる。

第7回大会(1962年) 1位 八幡製鐵、2位 東急、3位 倉敷レーヨン
☆後の五輪日本代表など、スター選手が数多く登場。道路の舗装向上も相まって、好タイムが続出する大会となった。
☆まず1区では、八幡製鐵・君原(前述)と東急・船井照夫(東京五輪・10000メートル代表)がデットヒートを展開。1位君原、2位船井、さらに3位、倉敷レーヨン・岩田正志までが区間新を記録する。
☆区では9選手が区間新。以下、3区が5人、4区3人、5区3人、6区3人。
☆優勝は、前回大会3位の八幡製鐵。1区君原から、5区長田正幸まで区間新を記録。1区から先頭を譲ることなく優勝を決めた。2位は、前年優勝の東急。リッカーミシンは11位と低迷した。
☆5区で区間新・区間最高を出した倉敷レーヨン・寺沢徹は後の東京五輪マラソン代表。

第8回大会(1963年) 1位 東急、2位 旭化成、3位 東洋工業(全19チーム参加)
☆午前中は、絶好の駅伝日和だったが、午後から10メートル前後の突風が吹き、選手たちを悩ませた。
☆区で大会史上に残る激戦が展開される。八幡製鐵・土屋と東洋工業・佐々木がデットヒート。従来の記録を1分30秒近く更新する47分55秒の区間新で同タイムゴール。胸一つの差で土屋が区間賞に輝いた。なお、土屋は翌年の東京五輪マラソン代表の4番手(補欠)となる。
☆優勝は、東急。2区船井が区間新で首位を奪い、そのまま逃げ切った。前年優勝の八幡製鐵は君原健二の欠場が響き4位に敗れた。
2位には、第1回大会以来の出場となった旭化成が入った。これが、全日本実業団駅伝における第1期旭化成時代の幕開けとなる。

第9回大会(1964年・東京五輪開催年) 1位 旭化成、2位 八幡製鐵、3位 東急(全18チーム出場)
☆スタート時間が午前9時に変更。
旭化成が初優勝を飾る。前回優勝の東急は、船井の不調で3位に終わる。9大会連続出場の八幡製鉄所は、この年もまたエース君原が欠場(東京五輪マラソン出場のため)したが、2位と健闘した。
☆上位3チームまでが、トータルタイムで大会新を記録した。
井藤一夫・岩下察男・太田義男・逢原正嗣・広島日出国・福村正勝・西村淳吉

第10回大会(1965年) 1位 旭化成(連覇)、2位 東急、3位 八幡製鐵(全21チーム出場)
☆スタートは、列車通過に引っかからぬように8時55分になった。
レースは、前回大会で大会新を記録した3強の争い。中盤まで勝負をリードしていたのは君原が2年ぶりに戻ってきた八幡製鐵だった。ところが、君原から襷を受けた藤沢修が東急と旭化成に捕まる。優勝は、東急とのアンカー対決を制した旭化成。史上2チーム目の連覇を達成した。
☆自衛隊体育学校の円谷幸吉(東京五輪・銅メダル)がこの大会で初参加。エース区間5区で区間賞を獲得。チームの4位入賞の立役者となった。
福村正勝・稲垣清市・広島日出国・岩下察男・原西正直・逢原正嗣・西本克己

第11回大会(1966年) 1位 旭化成(3連覇)、2位 倉敷レーヨン、3位 リッカーミシン(全23チーム)
☆この大会から600メートル短縮され走行距離83キロに。
史上初の3連覇を狙った旭化成だが、1区で1分54秒差の15位と大きく出遅れる。さらに2区を終わっても13位。3連覇は絶望的と思われたが、3区から怒濤の追い上げを見せる。3区からの5区間で実に4人が区間賞を獲得。終わってみれば2位倉敷レーヨン1分近い差を付け優勝。3連覇を成し遂げる。
逢原正嗣・原西正直・広島日出国・福村正勝・稲垣清市・黒木 章・中城幸夫

第12回大会(1967年) 1位 電電中国、2位 倉敷レーヨン、3位 九州電工、4位 旭化成(全26チーム)
「目標は大会記録を縮めるだけ!」大串監督が語った様に、前人未踏の4連覇へ、死角なしと思われていた旭化成だったが、波乱の大会となった。
☆出場の九州電工、5区で佐々木精一郎が区間新・区間最高でトップに立つと、そのまま、アンカーまでトップでたすきをつないだ。しかし、それまで2位の電電中国は、アンカー片山勝(全日本実業団1500メートル優勝)が、ペース無視の捨て身のアタックを見せ、果たしてこれが功を奏す。片山は区間賞に輝くと共に、見事、電電中国に初優勝をもたらした。九州電工は、その後、倉敷レーヨンにも刺され、結局3位。
旭化成は2区岩下が区間20位の大ブレーキ。後半追い上げたものの4位が精一杯だった。

第13回大会(1968年) 1位 旭化成(4回目)、2位 八幡製鐵、3位 東洋ベアリング(全24チーム)
旭化成は、前年ブレーキの選手を外すという荒療治を行い、見事復権を果たした。
☆前回大会優勝の電電中国は5位。2大会連続2位の倉敷レーヨンは7位。前回、台風の目となった九州電工は6位に終わった。上位を占めたのは13大会連続出場の八幡ベアリングと12回目の出場となった東洋ベアリング。古豪が復活を遂げた大会でもあった。
☆東日本勢はリッカーミシンの11位が最高。東急も14位と振るわず、駅伝は西高東低と言われた。 
斎藤貞信・礒端克明・広島日出国・稲垣清市・井藤一夫・中城幸夫・北山吉信

第14回大会(1969年) 1位 東洋工業、2位 旭化成、3位 電電中国(全23チーム)
旭化成に思わぬダークホースが立ちはだかった。中国予選2位、東洋工業である。スタートから最後まで、この両チームの一騎打ちとなった。
1区では1秒差のトップで旭化成、2区は逆に東洋工業が1秒のリードでたすきをつなぐ。3区は、互いゆずらず同タイム。そのまま6区まで1秒を争う戦いが続く。勝負が大きく動いたのは、第6区。東洋工業・中川衛が区間新・区間最高を記録し、ダークホース東洋工業がおよそ30秒のリードを奪う。結局、そのまま旭化成の追撃を振り切り、初優勝。旭化成は12秒及ばず、連覇を逃す。
☆この大会では、上位3チームまでがトータルタイムで大会新となった。 

第15回大会(1970年) 1位 電電中国、2位 旭化成、3位 リッカーミシン(全23チーム)
☆全コース舗装道路で行われたこの大会では、マラソン選手の強化育成も兼ねているため、距離が16.4キロ延長。総距離99.4キロで行われるようになった。
☆勝負は6区の23.4キロと各チームが予想していたが、実際はアンカー決着に。2位で襷を受けた電電中国・小林秀昭が先行するリッカーミシンを抜き、追いすがる旭化成を振り切って先頭でゴール。電電中国が3年ぶり2回目の優勝を果たした。
☆新日本製鉄(前・八幡製鉄)の三村清登は、第1回からこの第15回まで、15大会連続出場を果たす(区間賞は計4回受賞)。

第16回大会(1971年) 1位 東洋工業、2位 全鐘紡、3位 クラレ、4位 旭化成(全25チーム)
☆新旧の勢力が入り乱れ、トップがめまぐるしく入れ替わる大会となった。
☆エース区間の6区では走り始めて13キロ付近で踏切に引っかかりトップ3選手が 15秒のロスタイムとなる。
☆結局、優勝したのはエース区間6区でトップに立った東洋工業。終わってみれば2位に2分近い差を付けての圧勝。2年ぶり2回目の優勝となった。全鐘紡がチーム史上最高順位の2位と健闘した。2回目の出場のクラレが3位。前回優勝の電電中国は5位と振るわなかった。
後に第2期旭化成黄金時代を牽引していくことになる宗茂がこの大会でデビュー。5区を走った。 

第17回大会(1972年) 1位 クラレ、2位 東洋工業、3位 旭化成(全26チーム)
州地区予選で2チームを出し、1−2フィニッシュを果たした旭化成と前回優勝の東洋工業の一騎打ちが予想された。
レースは2区で旭化成がトップに立ったものの、すかさず3区でミュンヘン五輪3000sc・5000メートル代表のクラレ・小山隆治が区間賞の力走を見せ逆転。結局、クラレが、ここからゴールまで一度もトップを譲ることなく優勝。2位には1区で11位と出遅れながら、少しずつ追い上げてきた東洋工業。旭化成は3位だった。
☆この大会では現天満屋監督・武富豊が神戸製鋼の第1走者でデビュー。 

第18回大会(1973年) 1位 旭化成(5回目)、2位 新日鐵、3位 東洋工業(全26チーム)
☆400メートルの距離短縮によって、全走行距離は99キロになった。
4大会連続で優勝を逃している旭化成は、2区で区間最下位の大ブレーキ。トップに3分半近いリードを許す19位に転落。ところが優勝戦線から脱落したと思われた矢先の第3区、佐藤市雄がオーバーペースとも思える走りで、9人抜きを達成。さらに次の4区10キロ区間で黒木章が6人抜き。一気に4位へとジャンプアップする。そして5区、初出場の宗猛がチームをついに2位まで押し上げる。追い上げる旭化成を待ち受けるのは、久しぶりに優勝あらそいに絡んできた古豪新日鐵(旧八幡製鐵)。そして両雄の決着はアンカー勝負へと持ち込まれた。旭化成のアンカーは磯端克明、新日鐵は君原健二。激しい戦いの末、僅か6秒の差で旭化成が優勝。磯端は区間賞。君原は区間2位。アンカーの戦いがそのまま勝ち負けに直結した。
なお第4回から数多くの名場面を生み出してきた君原は、この大会が最後の全日本実業団駅伝となった。一方、旭化成は初めて宗兄弟が揃って出場した。
☆カネボウ監督・伊藤国光もこの大会でデビュー(第1区)。 
宗 茂・長野義文・佐藤市雄・黒木 章・宗 猛・北山吉信・礒端克明

第19回大会(1974年) 1位 鐘紡、2位 旭化成、3位 神戸製鋼(全25チーム)
鐘紡と旭化成、2強時代の幕開けとなった大会。
旭化成は、2区で宗茂がトップに躍り出たものの、続く3区宗猛が、ダークホース中央発條・林卓郎に交わされてしまう。その後、旭化成は5区で巻き返し再びトップに躍り出るが、6区で鐘紡(前回大会に全鐘紡から名称変更)・伊藤国光の好調な走りの前に、再び逆転を許す。結局、そのまま差を詰めるどころか、4分以上も鐘紡に引き離され2位。鐘紡が初優勝を飾った。 


第20回大会(1975年) 1位 旭化成、2位 鐘紡、3位 リッカー(全25チーム)
大会を彩る名シーンが生まれた。最終第7区、1分17秒の差を付け鐘紡・酒見勝喜がトップ。常識的にいけば鐘紡の連覇はもう目の前だった。ところが、2位旭化成・河野房雄がオーバーペース覚悟の大追走を見せる。そして、7キロ地点150m、中間点で100m、残り3キロで50mと、その差をじわじわと詰め、ついにゴール目前で逆転してしまったのだ。
☆この大会では、コニカミノルタの前身小西六が初出場。13位だった。 
佐藤市雄・長野義文・宗 茂・北山吉信・佐藤 進・宗 猛・河野房男
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